バス爆発の夢を見た少女が目を覚ますと、ベッドの下で何やらもぞもぞ動いていた。あたりはしん、と静まり返っているだけに、その気配がより鮮明に彼女の元へ届くのだ。
 少女は恐る恐るベッドの下をのぞきこもうとしたが、相手の方が行動に出た。小さな人影が一つ、百合柄のベッドカバーの下からはいずり出たのだ。それは覚束ない動作でよちよちと、少女の部屋のドアへ向かって駆けて行く。少女は自分で考えるより先に、小さな人影へ駆け寄った。恐怖はなかった。
 人影はどうやら裸のようだった。肩先を掴むと、人間の皮膚には違いないのだが、それは半熟卵のような不完全さを持った柔らかな感触をしていた。赤ん坊だわ! と少女は思い、すぐに息を呑んだ。一糸まとわぬ赤ん坊のてっぺん、人間の頭部がある部分がフツウではなかったからだ。彼または彼女の頭は茶色く硬い体毛に覆われていて、小さな耳の上には硬い角が二つ。黒眼ばかりの子牛であったのだ。
 赤ん坊が振り返る。少女を見る。マ! マ! と高い声で鳴き、窓からは銀色の月の光がさしていた。


 少女がネットワークベースで赤ん坊の特徴を検索したところ、赤ん坊は「ミノタウロス」という名のギリシア神話の架空生物であるらしかった。人間の肢体に牛の頭を持つ、凶暴な生き物。雄牛を愛してしまった罪深い后が産んだ、異形の怪物であるとそこには書かれていた。
 間違っている、と少女は思った。腕に抱いたこの生き物は、現実に存在しているし、凶暴にも、怪物にも見えない。彼(ミノタウロスはオスであった)は人間の赤ん坊よりも壊れやすく、こんなにも美しい。
 マ! マ! 赤ん坊が少女の胸をまさぐる。少女は白い下着を外し、摘んできたばかりの桃のような、平らな上に心持変化が見られる程度の自分の乳房を赤ん坊に押しつける。未だ脂肪の塊でしかない、なんら機能を持たない少女の肉に赤ん坊は口づけた。縋るように彼が吸引している間、少女は目を閉じて赤ん坊から聞こえる熱い命の音を聞いた。何かが震えているように思えてならなかったが、それは赤ん坊だったのか自分だったのか。少女には分からなかった。やがて赤ん坊は満足したように眠った。少女も満足して眠りに落ちた。満ち足りた気分だった。


 赤ん坊は一秒一秒を、確実に生きていた。少女にもそれが目に見えて分かった。というのも、赤ん坊の成長スピードは人間よりも早く、まるで猫の子のように素早い細胞分裂を繰り返すのだ。ベッドの下からマ! マ! と赤ん坊が鳴く度少女は乳をやり、二人は満足して眠った。


 学校での少女は、いてもいなくても何ら差し障りのないその他大勢のうちの一人であった。特出した才能もなければ、個性もない。ひどく口下手で、どのような角度から鏡を見ても美人ではなかった。彼女自身、とても早いうちからそれをよく理解していて、できるだけ他人と行動を共にする時は息を潜めていようと心に決めていた。人いきれに紛れること。それが彼女の使命であり、主張だった。家でも同じだ。母親は早くから少女に興味をなくし、表面上にこやかな家庭であるものの妹の方に尽力していた。妹には姉にない、輝くような太陽の愛らしさがあった。少女はそれでいいと思った。誰もわたしの中に入ってくれなくていい。孤独を孤独とも思わない。その諦めに似た感情はずっと昔から抱えていた根深いものだったように思う。


 赤ん坊は、赤ん坊ではなくなっていた。少女の乳を吸った赤ん坊は今や少女と同じ背丈になりつつあった。大きすぎる。この腕に抱く事ができない。予め一つであった身体が分離されるような感覚。徐々に赤ん坊の身体と少女の身体はかみ合わなくなっていた。
マ! マ! と呼ばれる度、少女は牛の頭を抱え込むようにしてミノタウロスに乳をやった。今や完全に二つの肉体は個々の生命を持ってしまっていたが、まだ幸福の底は見えなかった。
乳をやるときの心の震えは赤ん坊ではなく、自分の体が放つものだ。これは怯えだ。赤ん坊がどこかへ行ってしまうことへの、怯えだ。
赤ん坊を抱けない代わりに、少女は気づいた。この腕に抱けなくなったところで、母と子の身体はもう別々の運命に向かって歩き始めているのだ、と。
それは確かに鋭い衝撃だったのだが、少女の心をすれすれに掠めただけで、すぐに意識から遠いところへ飛んで行ってしまった。だから、五秒後にはきれいさっぱり忘れることができた。

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