桃之夭夭  灼灼其華
   之子于帰  宜其室家
   桃之夭夭  有フン其実
   之子于帰  宜其家室
   桃之夭夭  其葉蓁蓁
   之子于帰  宜其家人
           ――詩経「桃夭」


 辛くも都を逃れたかんが、郷へ戻る道すがら行商人に出くわした。
 地まで届く辮髪べんぱつと白い顎髭を持った仙人のような老爺である。草で編んだ御座を敷き、あぐらをかいて座る前にありとあらゆる売品うりしなが並べられている。輝くような白磁の皿や、煌びやかな意匠の朝服、鋭い切っ先の矛や鉄剣、山と積まれた詩経の書物……みすぼらしい姿の老人に反して、どれも精巧に作られた逸品ばかりだ。
 つぶさに観察しているうちに、これらは例の反乱に乗じて都から略奪してきたものに違いないと李韓は気づいた。都落ちしたといえど官吏として捨ておけぬ。李韓がつめよると、老人は額を地につけ目こぼしを乞った。それでも李韓が引かずにいると、老人は後背から小さな青磁の鉢を取り出して頭上高くに差し上げた。
 鉢を見るなり、李韓はアッと悲鳴をあげ、思わず数歩後じさった。  黒茶けた腐葉土の真中から、にょきにょきと娘が生えていたからである。
 胸に手を当て、軟く目を伏せ、安堵の笑みを浮かべる若い娘が老人の手の上でじっとしている。否――、李韓が顔を寄せてまじまじと観察したところ、それは娘にそっくりの、白皮の細い文人木であった。枝の先についたりゅうがさながら女の頭部に見え、隆起の作り出す陰影が伏せられた目や小高い鼻や赤く色づいたおちょぼ口を形作っている。鉢を受け取り、幹を触ると、人の皮膚とはほど遠い、硬い木の感触がする。
 老人は両手をもみしだくように重ね合わせ、にこやかな笑みを浮かべている。色のない唇が開いたと思うと、「頬紅桃」。聞いたことのない言葉が漏れ出た。李韓が思わず聞き返すと、老人は力強く頷いた。
「これはジャホンタオなる木でございます。春になると天頂の瘤が膨らみはじめ、真っ赤に熟した実がなります。それが頬の落ちるほど美味い。露店税の代わりに差し上げましょう」
 李韓は催眠にかかったようにふらふらと、鉢を故郷へ持ち帰った。
 村の皆は突如姿を現した李韓に驚き、再会を喜んだが、当の本人はそれどころではなかった。長い不在の果てに荒廃した自宅などそっちのけで何よりも先に庭を耕すと、いちばん日の当たりの長いところへ頬紅桃を植え替えた。
 庭の片隅に立った頬紅桃は、丸い顔をうつむかせ、頬を赤く染めていた。まるで、年頃の娘が想い人をこっそり伺い見ていたところ、通りがかりの誰かに見咎められてしまったというような立ち姿で。李韓は得も言われぬいじらしさを感じた。
 家の縁に腰掛けその姿にしばらく見惚れたのち、はっと我に返り水をやった。頭から柔らかな水が滴って頬紅桃の白い身体は瑞々しく輝いた。美しい乙女の行水だ。李韓は飛び上がりたいほど嬉しくなって、毎日欠かさず水をやった。


 その様子を軒先から見ていた村人たちは、哀れみの溜息をついた。
 若年は放蕩の生活を送り、役人になっても家庭を持たず、故郷の村に戻ってなお独り身でいる李韓が、植物を溺愛しはじめた。しかもその木は人の娘の形を模した異形の物である。これでは、流行病で死んだ父も母も浮かばれないだろう。村の娘たちは、植物に猛進する李韓をおそれた。中には、反乱の戦で気が触れたのだと言い出す者さえいた。
 そんな彼らにお構いなく、李韓は日がな一日植物の手入れをして過ごした。いくら眺めても飽きなかった。娘の様相に磨きが掛かり、頬紅桃は日増しに美しさを重ねているように見えた。
 頬で切りそろえられた短髪の直線に李韓は洗練された美しさを見た。伏せられた睫毛の影に憂いを秘めた美しさを見た。瘤の中央に浮き出た小鼻に慎ましやかな美しさを見た。赤みのさした唇に華やかな美しさを見た。
 そして何より、頬紅桃という名にふさわしい朱色の頬に恥じらう乙女の美しさを見た。
 頬紅桃の頬の色は本来の血色を取り戻すかのように日毎赤みを増し、徐々に膨らんでいるようだった。すっきりとしたうりざねの顔が次第にふくよかに、子供の頃の面影を取り戻しつつ、しかし流行病にかかった病人のように膨れ上がると、さすがに李韓も心配になってきた。頬紅桃の両頬は、今でははちきれんばかりに腫れ、ほとんど顔の表情を押し隠している。
「頬紅桃よ、どうしたというのだ。悪い虫に喰われたのか。子供にいたずらされたのか。頬紅桃、頬紅桃」
 堪えきれず李韓が尋ねても、頬紅桃は答えない。その顔へ恐る恐る手を伸ばすと、ぼとりと音を立て、手の中へ真っ赤に熟した実が落ちた。驚いて顔を見上げると、頬紅桃の片頬はすっきりと熱が抜け、元の通りに治っている。同じように片頬からも熟した実が落ち、腫れが引いた。
 頬から落ちた木の実をかじると、頬の落ちるほど美味い。とろけるような甘味の奥で、爽やかな酸味がしゅわしゅわと泡を立てている。
 なるほど、これが頬紅桃の木の実なのだ、と李韓は思った。


 一つ目を平らげると思いの外腹一杯になり、片頬をどうしようか思いあぐねていると、ふと背後に視線を感じた。振り返った軒先に少女とも女ともいえぬ中途半端な顔が見えた。見知った村娘の一人が、恐ろしいもの見たさに李韓の家を訪ねてきたのだ。
 李韓が頬紅桃の片頬をくれてやると、娘は訝しげにあらゆる角度から実を眺めまわしていたが、意を決してひと思いにかじりついた。予想外の美味さに驚いたと見え、細い目を大きく見開く娘に李韓は微笑みを隠せなかった。
 娘は度々、李韓の家に頬紅桃を眺めにきた。頬紅桃は二十七日の周期で熟した実をつけ、その度に李韓は娘と家の縁に腰掛けて実を食べた。二言三言交わすだけの会話が次第に増え、ときには頬紅桃を忘れて、娘と長話に興じることもあった。
 娘は都のことを知りたがった。李韓は反乱軍に捕えられたときの話をした。半年ほど地下牢に幽閉されていたのである。
 硬い石床いわとこの感触や、暗闇で作った詩の一節、敵の束縛の緩んだ後に歩き回った宮殿の内装や、都落ちした晩の朧月おぼろづきのことなどを話して聞かせた。
 二人のやりとりを軒先から見ていた村人たちは、李韓が娘と婚姻の約束をしたのだと思いほっと胸をなで下ろした。
 事実、わずかに時を遅くして、そのような取り決めが李韓と娘の父母の間で行われた。李韓も娘も互いに惹かれあっていたし、収入は覚束ないが反乱の戦が終われば風向きも変わってくるだろうということで、二人は事無く結ばれた。


 婚礼の日、熟した果実は誰に拾われることなく地面に落ちた。土の上で実は腐り、頬紅桃の木の根までもを腐らせた。

 李韓が祝宴から帰ってくると、庭の片隅で頬紅桃が枯れかかっていた。透き通るように白い幹は茶色に腐食し、頭の瘤も萎れかけていた。辛うじて表情は残っているものの、手を触れれば今にも崩れ落ちてしまいそうだ。娘は硬く目を閉じ、痛みに耐えているように見えた。額にしわがより、小さな唇から今にも苦しみに呻く声が聞こえてきそうだ。
 酒に酔った頭を振って、李韓は家を飛び出した。近場の者から馬を借り、頬紅桃を譲り渡した行商の老人を訪ね、近隣の村を訪ねて回った。一晩でいくつの村を渡り歩いたか知れない。
 前後不覚の状態でたどり着いたその村宿に老人はいた。驚いた顔で李韓を見る老人を馬に乗せ、自分の家へ連れ帰る。道すがら、呂律の回らぬ舌で李韓が事情を説明すると、老人は深刻な顔でぎゅっと唇を噛んだ。
 李韓の家で頬紅桃は萎れたままぐったりしていた。瑞々しさの欠片もない、見るに耐えない姿だった。
「頬紅桃の病は、どうすれば治るだろうか」
李韓の言葉に、老人は虚しく首を振った。
「頬紅桃は繊細な植物ゆえ、一度傷つけてしまったら二度と元通りになることはない。おそらく原因は頬紅桃の落とした果実をきれいに取り払わなかったことだろう。あれは人間の口には美味なる食物だが、植物にとっては恐ろしい毒薬なのだ。可哀想にこの頬紅桃はもう駄目だ」
 老人の一言が合図であったかのように、どこからともなく一陣の風が吹いた。頬紅桃の大きな瘤のちょうど閉じた眼にあたる位置から、吸い上げすぎた水が頬を滴った。そのまま力なく崩れ落ちる頬紅桃を李韓は為すすべもなく見送った。
 紫色に染まった空から細い光の雨が振り注ぎ、やがて太陽が顔を出した。今や茶色い泥塊でいかいとなった頬紅桃を見つめながら老人はこんな話をした。


 ――頬紅桃はどれも娘にそっくりの姿形をしている。白い細木の先に小さな瘤がついて、その瘤の凹凸は皆同じ娘の顔……というのも、頬紅桃は或る娘のなれの果てだという言い伝えがあるのだ。
 今となっては気の遠くなるほど昔のこと、頬紅桃の娘、まだ人の姿をしていた頬紅桃の娘は、ある詩人に恋をしていた。
 同じ村に暮らす男で、頬紅桃と男は幼い頃から互いを深く愛し合っていた。年頃になると二人は同じ家に暮らすようになり、温かな体でうら若な愛をはぐくんだ。
 ある日のこと、男の作った詩が地方へ巡回にきていた官吏の目に止まり、時の帝へ献上された。帝は男の詩をたいそう気に入り、ぜひ官吏にして手元に置いておきたいとおっしゃった。お上の命にそむくことは出来ず、取り立てるように役人は頬紅桃の男を都へ持って行ってしまった。別れ際、男は頬紅桃に約束した。職務をまっとうし、必ず故郷へ帰ってくると。
 頬紅桃は男の帰りを今か今かと待っていたが、三年経っても五年経っても男は帰ってこなかった。
 頬紅桃を案じた村人の一人が都へ参上した際、男の所在を尋ねて回ったが、役人たちはそのような男は見たことがないという。不審に思った村人が都の方々へ尋ねて回るに、都へ来てまもなく男は流行病に侵されて死んでしまったのだという噂を至る所で聞き拾った。実しやかに噂を語るのは町人ばかりで、役人たちは口を揃えて「知らない」「分からない」との一点張り。男の遺品すら手に入れられず、薄ぼんやりとした訃報だけ持って村人は頬紅桃の待つ家に帰り着いた。
 都で見聞きしたことをもれなく娘に語っても、娘は動じる素振りなく、まっすぐな目をしてこう言った。
「根も葉もない噂でしょう。人の上に立つお役人が、自らの都合のために一人の人間の死を隠蔽するなどありえない。お役人を疑うことは、官吏になったあの人までもを疑うのと同じこと。だから私は信じます。あの人はきっと、誰もが目を驚かすような詩をたくさん作り、そのおかげで帰りが遅くなっているのだわ」
 その後何人もの都へ参った村人が、都落ちして村に帰り着いた人々が、町で聞いた男の訃報を話しても頬紅桃は信じない。ただ家の庭先に立ち、都の方を向いたまま日が暮れるまで男の帰りを待っていた。村人は頑なな頬紅桃に疲れ果て、説得も無駄だといつしか娘に近寄らなくなった。
 それから何年も時が過ぎ、ある日一人の村人が気まぐれに娘の家を訪ねて見ると既に娘の姿はなく、荒廃した庭先に娘の顔そっくりの一本の木が都の方を向いて立っているばかりだった。
 愛しい人を待ち焦がれ、いつしか娘が木になってしまったのだと、村人たちは涙を流した。

 ――頬紅桃はその後何百年にも渡って子孫を増やし、枯れてはまた芽生え、枯れてはまた芽生えして、男の帰りを待っているのだ。


 老人が去ってしまうと、李韓は頬紅桃を土から抜いて、埋葬するように庭先に埋めた。
 埋め直した土を見つめて呆けていると優しい手が肩に触れ、振り返る先に今では立派な娘となった最愛の女が立っていた。
「今日はお前のために詩を作ってやろう」
 頬紅桃の枯れたことを告げず、李韓は娘とともに家の中へ入っていった、その頼りない肩先を手放さぬよう強く抱いて。








2013.3.10